井筒俊彦:30以上の言語を操った「言語の天才」の軌跡

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わずか1ヶ月でコーランを読破し、30以上の言語を習得した日本人がいた。 井筒俊彦(1914-1993)は、イスラム研究と比較哲学の世界的権威であり、小説家・司馬遼太郎に「二十人の天才を一人に重ねたような」と評された稀代の言語学者である。彼の生涯は、言語習得への極限的な献身と、言語を通じて東西の思想を架橋するという壮大な知的冒険の記録だ。英語をはじめとする多言語習得における彼の動機、方法、苦闘、そして哲学は、現代の日本人英語学習者に深い示唆を与えてくれる。

禅の家庭が育んだ言語への感性

井筒俊彦は1914年5月4日、東京・四谷に生まれた。父・信太郎は日本石油会社の社員であり、新潟の裕福な米問屋の出身だったが、同時に在家の禅修行者として坐禅と公案を日々実践し、書道と碁を嗜む文人でもあった。母・シン子は元芸者という複雑な家庭環境だった。

この父の存在が、井筒の精神的・知的形成に決定的な影響を与えた。幼い頃から父は井筒に『無門関』の素読を課し、坐禅を指導した。「自分の心をも見るな。内にも外にも一切の障碍を除け。ただ無に溶け込め。無に入ってもその無をも見るな」——父が教えたこの内観法は、後に井筒が世界中の神秘主義思想を研究する際の原体験となった。井筒自身、『神秘哲学』の序文で、この幼少期の禅体験が自分の学問の根底にあることを告白している。

青山学院中学に進学した井筒は、メソジスト系のキリスト教学校で初めてキリスト教と出会った。禅の世界観で育った少年にとって、キリスト教の教えは激しい嫌悪感を呼び起こし、礼拝中に嘔吐するほどだったという。しかし、この異文化・異宗教との衝突体験が、皮肉にも彼を比較宗教学へと向かわせる契機となった。

10言語同時学習という破格の大学時代

1931年、17歳の井筒は慶應義塾大学予科に入学し、父の意向で経済学部へ進んだ。しかし経済学に興味を持てず、1934年に文学部英文科へ転科し、詩人で超現実主義文学者の西脇順三郎のもとで学ぶことになった。井筒は西脇について「生涯を通じて師として仰いだ唯一の人」と語っている。三田キャンパスを歩く西脇を初めて見た時、「胸がわくわくした」という。

驚くべきは、大学時代の井筒が約10言語を同時に学習していたという事実である。昼間は慶應で英文学を学びながら、夜は神田にあった聖書原典研究所に通い、ユダヤ人救出で後に有名になる小辻節三からヘブライ語を学んだ。この夜学で先輩の関根正雄と出会い、二人でドイツからアラビア語の教科書を取り寄せて独学を始めた。さらにロシア語、古典ギリシア語、ラテン語も同時に学習していた。

この時期の井筒の学習法は、彼の言語習得に対する根本的姿勢を示している。彼にとって言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、聖典を原語で読み、その世界観を直接体験するための鍵だった。旧約聖書を原文で読みたいからヘブライ語を学び、コーランを原文で読みたいからアラビア語を学んだ。この「原典への渇望」が、彼の多言語習得の核心にある動機だった。

タタール人学者との運命的出会いがもたらした「生きたアラビア語」

1937年に慶應を卒業した井筒は、アラビア語を「生きた言葉」として習得するため、東京に住んでいたタタール人イスラム学者・アブデュルレシト・イブラヒムを訪ねた。ロシア革命後に日本へ亡命してきたイスラム知識人だった。井筒が初めて生のアラビア語の響きを聞いた時、喜びで震えたという。

イブラヒムは指導を引き受ける条件として、アラビア語だけでなくイスラム諸学も同時に学ぶことを求めた。井筒はこれを受け入れ、2年以上にわたり毎日イブラヒムのもとに通った

さらにイブラヒムの紹介で、カザン出身の著名なイスラム学者ムーサー・ビギエフとの出会いが訪れた。ムーサーの日本滞在中の2年間、井筒は彼と起居を共にし、朝から夜遅くまでアラビア語漬けの生活を送った。読む・書く・話す・教える——全てをアラビア語で行う完全没入の日々だった。

ムーサーとの出会いは、井筒の言語学習観を根底から変えた。
ある日、ムーサーは井筒の書斎を訪れ、大量の本を見てこう尋ねた。

「火事になったらどうする?」

井筒が「しばらく勉強できません」と答えると、ムーサーは笑ってこう言った。

「火事になると勉強できなくなるような学者は情けない。旅行する時はどうするんだ?」

本を送ると答えた井筒に、ムーサーは厳しく言い放った。

「君は殻を背負って歩くカタツムリ人間だ。それは学者ではない。本当に何かを習得したいなら、基本的なテキストを全て頭に入れよ。そして自分の意見を自由に働かせるのだ」

ムーサー自身、アラビア語文法書『スィーバワイヒの書』約1000ページとその注釈を全て暗記しており、書物を一切使わず口述だけで教えた。イスラム世界では伝統的に、学者は基礎文献を全て暗唱できるものだという。井筒はこの教えに衝撃を受け、以後、テキストの暗記を自らの学習法の核心に据えた。

「1ヶ月でコーラン読破」という伝説の背後にある方法論

井筒俊彦にまつわる最も有名な逸話は、アラビア語学習開始からわずか1ヶ月でコーラン全巻を読破したというものである。これは誇張ではなく、複数の資料で確認できる事実だ。

では、なぜそれが可能だったのか。井筒の語学学習法には、いくつかの特徴がある。

1. 完全暗記方式 東大のサンスクリット学者・辻直四郎からサンスクリットの書籍を借りた井筒は、1ヶ月後に内容を完全に暗記して返却した。辻は「世の中には凄い人がいるものだ」と驚嘆した。また、大川周明から借りた600ページのアラビア語書籍を1週間でほぼ暗記して返却したという記録もある。「読んだものは基本的にそのまま覚えている」——これが井筒の能力だった。

2. 同時並行学習 弟子の鈴木孝夫によると、井筒は日替わりでテーマを変えて学習していた。今日はロシア語、明日はギリシア語、明後日はペルシア語、その次はアラビア語、ドイツ語、フランス語——という具合に、複数言語を並行して学び続けた。

3. 病気の期間も学習に充てる 戦後、結核で療養生活を送った井筒は、病床でロシア語をマスターし、回復後すぐにロシア文学史、ロシア精神史、チュッチェフやレールモントフの研究書を次々と発表した。

4. 「生きた人間とはやらない」という原則の例外 井筒には「新しい言語を学ぶ時、その国の大使館員を家に下宿させた」という伝説があったが、本人はこれを否定している。「生きた人間とはやらない」と語った井筒だが、アラビア語だけは例外であり、イブラヒムとムーサーという二人のイスラム学者との長期にわたる師弟関係を通じて習得した。これは、イスラム世界の伝統的な学問伝授方式(口伝による知識の継承)を体験的に学ぶためでもあった。

英語で世界に発信した学術的業績

井筒俊彦は、30冊以上の学術書を英語と日本語で執筆し、国際的な学術舞台で活躍した。彼の英語力は、単に外国語として学んだものではなく、学問を世界に発信するための本質的なツールとして位置づけられていた。

主要な英語著作

著作名出版年内容
Language and Magic1956年言語の呪術的機能の研究。ローマン・ヤコブソンの推薦を受けた
God and Man in the Koran1964年コーランの意味論的分析。マギル大学での講義に基づく
Ethico-Religious Concepts in the Qur’ān1966年コーランにおける倫理・宗教概念の意味論的研究
Sufism and Taoism1966-67年/1983年改訂イスラム神秘主義と道教の比較研究。最も影響力のある著作
Toward a Philosophy of Zen Buddhism1977年禅仏教の哲学的解明

国際的な学術活動

カナダ・マギル大学(1961-1975年) 1961年、ウィルフレッド・キャントウェル・スミスの招きでマギル大学イスラム研究所に客員教授として招聘された。1969年に慶應を定年退職後は、マギル大学でイスラム哲学の正教授として教壇に立った。

イラン王立哲学アカデミー(1973-1979年) セイェド・ホセイン・ナスルの招きでテヘランに移り、東洋哲学とイブン・アラビー哲学を教授した。1979年のイスラム革命後、日本人救出便の一つで帰国するまで、この地で研究を続けた。

エラノス会議(1967-1982年) スイス・アスコナで毎年開催される学際的な知識人会議に、約15年間にわたりほぼ毎年参加し、禅仏教、道教、儒教、易経などについて英語で講演した。C・G・ユング、ゲルショム・ショーレム、アンリ・コルバンらと同じ舞台に立った。井筒はこの時期を「夢のような、限りなく豊かで実り多い時」と回想している。

国際的評価

イスラム研究者セイェド・ホセイン・ナスルは、『スーフィズムと道教』について次のように評した。

「この本は、近代学術史上初めてイスラムと中国思想の深い比較を行った。この本が出版されて以来、イブン・アラビーと形而上学的スーフィズムに関するあらゆる研究に影響を与えてきた」

井筒の弟子であったウィリアム・チティックは、師の方法論を継承して『The Sufi Path of Knowledge』(1989年)を著し、イブン・アラビー研究の第一人者となった。井筒の影響は、特にトルコのイスラム研究において顕著であり、神学部での標準的参考文献となり、無数の学位論文に引用されている。

「言語はロジックであり、同時にマジックである」——井筒の言語哲学

井筒俊彦の言語観は、単なる実用主義を超えた深い哲学的洞察に基づいている。彼の核心的テーゼは「言語はロジック(論理)であり、同時にマジック(呪術)である」というものだ。

言語アラヤ識という概念

井筒は仏教唯識思想の「阿頼耶識」(あらやしき)概念を言語論に応用し、「言語アラヤ識」という独自の理論を展開した。これは、全ての言語が普遍的な意味の貯蔵庫から、それぞれの言語・民族・環境を通じて異なる世界観を結晶化させるという考えである。

つまり、各言語はそれぞれ固有の思考システム、世界観、価値体系を内包している。英語には英語的な世界の切り分け方があり、アラビア語にはアラビア語的な現実の捉え方がある。だからこそ、ある哲学や宗教を真に理解するためには、その言語的宇宙に入り込む必要があるのだ。

意味分節理論

井筒の「意味分節理論」によれば、私たちが通常経験している「現実」は、実は言語による意味分節を通じて意識が作り出したものである。言語は、未分化な存在の連続体を意味あるカテゴリーに分割する哲学的に決定的な機能を持つ。

「言語意識はその深層において、できあいの意味を持たない。刻一刻、新しい世界がそこに開かれる…表層では固定し不動に見えた意味も、概念的拘束から解放されると、アメーバのように浮遊し、伸縮し、動的にその境界を変容させていく」

原典主義の実践

この言語哲学から、井筒の徹底した原典主義が生まれた。翻訳は必然的に原言語に埋め込まれた意味の網を失わせる。だからこそ、あらゆる哲学的・宗教的テキストを原語で読まなければならない。

井筒の日本語コーラン翻訳(1957-58年)は、アラビア語から日本語への史上初の直接翻訳であり、英語やその他のヨーロッパ語を介していない。しかし井筒自身は最初の翻訳に満足せず、1961-64年に全面的に改訳した。彼は「各章の複雑で重層的な意味だけでなく、コーランとアラビア半島の当時の雰囲気」を伝えようとした。これは原語との直接的対話を通じてのみ可能なことだった。

多言語能力が可能にした「東洋哲学」の構築

井筒俊彦の30以上の言語習得は、単なる知的好奇心の産物ではなかった。それは、東西の思想を架橋する壮大な比較哲学プロジェクトを可能にするための必然的条件だった。

「共時的構造化」という方法

井筒は、歴史的に無関係な諸伝統(イスラム神秘主義、道教、禅仏教、ヒンドゥー哲学、ギリシア哲学)の中に、共通の形而上学的パターンを発見した。彼はこれを「共時的構造化」と呼んだ。

例えば、『スーフィズムと道教』では、イブン・アラビーのスーフィズムと老荘の道教を比較し、両者が——歴史的接触がないにもかかわらず——「絶対者」と「完全人」という概念を軸に驚くほど類似した構造を持つことを示した。

井筒はこう述べている。

「現代の日本人が東洋哲学のテーマを取り上げ、現代的意識の地平の中で探究する時、東西の出会いは実存的体験として自然に生じる。東西比較哲学が自ずと立ち上がってくる」

意識の零度

井筒の比較哲学は、「意識の零度」——全ての分化した意識と存在が立ち現れる前の未分節の根底——を探求した。この未分節の状態は、仏教では「空」、道教では「道」、スーフィズムでは「神秘の中の神秘」として現れる。各伝統は異なる言語で同じ深層の真理を表現しているのだ。

この洞察は、多言語を通じて複数の思想伝統を内側から体験した者にしか得られないものだった。

英語学習者への示唆:井筒俊彦から学べること

井筒俊彦の言語習得の軌跡は、現代の日本人英語学習者に重要な示唆を与える。

1. 言語学習の動機を明確にする 井筒にとって、言語は聖典や哲学書を原典で読むための手段だった。「コーランをアラビア語で読みたい」「旧約聖書をヘブライ語で読みたい」——この強烈な動機が、困難な学習を支えた。現代の学習者も、「英語で何をしたいのか」という根本的な問いに向き合うべきだろう。

2. 没入と継続の力 井筒のアラビア語習得は、2年以上にわたる毎日の師弟関係と、さらに2年間の完全没入生活によって達成された。「朝から夜遅くまでアラビア語漬け」——この徹底した没入が、ネイティブレベルの能力を生んだ。

3. 暗記を恐れない 現代の語学教育では暗記が軽視されがちだが、井筒はテキストの完全暗記を学習の核心に据えた。ムーサー・ビギエフの「基本文献を全て頭に入れよ」という教えは、語彙や文法の内在化がいかに重要かを示している。

4. 複数言語の同時学習 井筒は大学時代に10言語を同時に学んだ。これは特殊な才能の証拠のように見えるが、彼の弟子・鈴木孝夫が記録しているように、井筒は日替わりで異なる言語を学習していた。複数言語の並行学習は、各言語の独自性をより鮮明に意識させる効果がある。

5. 言語を通じて世界観を学ぶ 井筒の最大の教えは、言語はそれ自体が思想であるということだ。英語を学ぶことは、英語話者の世界の見方を学ぶことでもある。この視点を持てば、語学学習は単なるスキル習得を超えた知的冒険となる。

結論:「存在はコトバである」という洞察

井筒俊彦の生涯は、言語習得への極限的献身と、言語を通じた東西思想の架橋という二つの軸で貫かれている。30以上の言語を操った「言語の天才」は、同時に、言語が人間の意識と存在を構成するという深い哲学的洞察を持つ思想家でもあった。

彼の核心的テーゼ「存在はコトバである」は、言語学習を単なる実用的技能の習得から、存在の本質に迫る哲学的探究へと高める。英語を学ぶことは、英語という言語宇宙を通じて現実を新たに経験し直すことでもある。

1ヶ月でコーランを読破した天才の背後には、毎日の師弟関係、テキストの暗記、完全没入という地道な努力があった。そして何より、「原典を読みたい」という燃えるような渇望があった。井筒俊彦の軌跡は、言語習得に王道はないが、明確な動機と徹底した没入があれば、驚異的な成果が可能であることを示している。