「敵の言葉」を学び続けた若者たち——陸軍中野学校における英語教育の真実

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敵性語排斥の時代に、なぜ彼らは英語を学び続けたのか。「名誉も地位も求めず、日本の捨石となって朽ち果てよ」——そう教えられた若きエリートたちは、「敵の言葉」である英語を250時間も学んだ。一般社会が英語を忌避する中、陸軍中野学校は真逆の道を歩んだ。そこには「敵を知らずして勝利なし」という冷徹な合理主義と、「謀略は誠なり」という逆説的な精神があった。本稿では、闇に葬られた秘密戦士たちの英語教育の実像を、卒業生の証言とともに明らかにする。

「スパイ」ではなく「秘密戦士」を育てた学校

1938年7月、東京・九段の靖国神社近くにあった愛国婦人会本部の別館に、19名の若い陸軍少尉が集められた。
彼らに告げられたのは、

「軍服の着用禁止」
「軍隊用語の使用禁止」
「偽名を使用すること」

という異例の命令だった。

陸軍中野学校の前身である「防諜研究所」の誕生である。設立を主導したのは岩畔豪雄(いわくろ ひでお)中佐で、彼は参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出し、「消極的な防衛対策だけでは勝てない。諜報・宣伝・防諜の専門要員養成機関を早急に建設する必要がある」と訴えた。

学校の選抜対象は、陸軍士官学校出身の「純軍人」ではなく、東京帝国大学、早稲田、慶應、東京外事専門学校(現・東京外国語大学)などの一般大学出身者が中心だった。1945年1月入校の第8期生150名のうち、実に90%以上が一般大学・高等専門学校の出身者であった。その理由を、当時の記録はこう説明する。「諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点のほか、庶民の生活習慣に馴染んでいることが求められていたため」——職業軍人は軍人らしい雰囲気が出てしまい、民間人への偽装に不向きだったのだ。

「敵性語」を推奨した唯一の陸軍機関

陸軍中野学校の英語教育を理解するには、まず当時の時代背景を知る必要がある。

1940年以降、日本社会では英語を「敵性語」として排斥する運動が激化した。NHKラジオの「基礎英語」は開戦と同時に中断され、野球用語は「セーフ→よし」「アウト→ひけ」と日本語化された。中学校の教科書からは英国国歌が削除され、街中から英語の看板が消えていった。

しかし陸軍中野学校では、敵性語排斥は一切行われなかったむしろ真逆であった。

「敵性語たる英語使用の自粛も全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須であり、英会話をすることを推奨された

1期生の教育報告書『後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告』(2012年発見)によれば、カリキュラムにおける語学教育の時間配分は以下の通りであった。

言語教育時間
英語250時間
ロシア語220時間
中国語190時間

総計660時間もの語学教育——これは全1,361単位のカリキュラムの中で、極めて大きな比重を占めていた。

ノートを取ることは「軽蔑された」

陸軍中野学校の教育方法は、当時の軍事教育の常識を覆すものだった。

1期生の日下部一郎氏は、その著書『陸軍中野学校 実録』の中でこう証言している。

「講義もまた型破りであった。教科書がない。教材がない。もちろん、一貫した教育方針や指導基準があるわけではなかった。講義は、各教官の思いどおりに、自由な形で行われた」

さらに驚くべきは、学習姿勢に対する独特の価値観である。

「授業を受けるとき、ノートをとるのは、いささか軽蔑されていた。話を聞く、質問をする。その一刻一刻が勝負なのだ」

これは単なる精神論ではなかった。諜報員として敵地で活動する際、メモを取る余裕はない。一瞬で情報を記憶し、分析し、判断する能力——それこそが生死を分ける。教室での「ノート禁止」は、実戦を想定した訓練だったのである。

教育形態は討論式で、教官と学生が対等な立場で議論を交わした。外出時間の制限もなく、自主自律の精神が重視された。卒業生の一人は後にこう回顧している。「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」——軍隊組織の中にあって、これほど異質な場所は他になかった。

「生きろ」という教え——一般軍との決定的な違い

陸軍中野学校の精神教育は、当時の日本軍の常識と真っ向から対立するものだった。

一般の陸軍では「戦陣訓」に基づき、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられた。捕虜になるくらいなら死を選べ、最後は突撃だ——それが帝国軍人の誇りとされた。

しかし中野学校では、全く逆のことが教えられた。

生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された」

どんな生き恥をさらしてもいいから、できる限り生きのびて、ゲリラ戦を続けろ。……捕虜になってもかまわないと教えられた」(小野田寛郎証言)

この教えは、陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校1期生であった井登慧氏(2019年取材時96歳)の証言でも裏付けられている。

「騎兵学校までは、『捕虜になるなら死ね。最後は突撃だ』とすり込まれてきた。それが、中野学校では『とにかく死ぬな。任務を重んじて生き延びろ』と。兵士一人一人の力は大きくて、たとえ捕虜になったとしても、敵にデマを流したり、情報を取って味方に伝えたりできると言うんです」

「国のために死ぬ」と教える軍隊の中で、「生き延びろ」と教えた学校——その存在自体が、日本軍の中での異端であった。

「謀略は誠なり」という逆説

汚く卑怯ともいえる諜報活動を行う者たちに、なぜ「誠」が求められたのか。

その答えは、陸軍中野学校の精神的支柱となった人物、明石元二郎(あかし もとじろう)陸軍大佐の存在にある。日露戦争において、明石大佐はヨーロッパで反ロシア勢力を組織し、革命運動を支援することでロシア軍2個軍団を本国に釘付けにした。この秘密工作が、日本の勝利に決定的な貢献をしたとされる。

明石大佐の成功の秘訣は、金銭や権謀術数ではなく、反皇帝派との間に築いた「真心と真心との結びつき」にあった。彼のヨーロッパでの活動記録『落花流水』(教材名『革命のしをり』)は、中野学校の基本テキストとなった。

「誠とは真心から発するもので、事をなすには誠心誠意をもって従事することであるとされた」

この精神は、戦後のある取り調べで見事に証明される。インド独立に貢献した日本人将校が、イギリス情報局から尋問を受けた際のやり取りである。

「現地の言葉も話せず、秘密工作経験も海外勤務経験もほとんどない君が、どのようにしてこのような大成功を収めたのか」

男はこう答えた。

「あなた方の植民地経営は上手くいっているように見えて現地住民たちを無視したものだった。そこには人間愛・思いやりがない。だから圧迫と摂取から彼らの夢であった民族の自由と独立への悲願達成を僕が手伝ったのみだ。そこに民族や言葉、敵味方の壁は存在しない

他の軍事機関との決定的な違い

陸軍中野学校の英語教育がいかに特異であったかは、他の軍事機関との比較で明らかになる。

陸軍士官学校は、太平洋戦争中に英語教育を廃止した。入試科目からも英語を除外し、代わりにドイツ語を重視した。プロイセン陸軍を範としていたためだが、この方針は皮肉な結果を招いた。陸軍エリートの中枢にドイツ語学習者が集中し、英米の戦力を過小評価する一因となったのである。

一方、海軍兵学校では、井上成美校長の強い信念により英語教育が継続された。

「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」 「英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実」 「私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない

井上校長は、英語廃止を求める排斥運動にも屈しなかった。英英辞典を使用し、和訳なしの英語による授業を実施した。

しかし陸軍中野学校は、さらにその上を行った。英語を「継続」したのではなく、積極的に推奨したのである。語学教育時間で比較すれば、その差は歴然としている。

機関英語教育の方針教育時間
陸軍士官学校廃止
海軍兵学校継続(縮小)週1時間程度
陸軍中野学校積極推進250時間

29年間の潜伏——小野田寛郎と中野学校の教え

陸軍中野学校の教育がいかに徹底されていたかを示す最も劇的な例が、小野田寛郎(おのだ ひろお)少尉の存在である。

小野田は1944年、二俣分校(ふたまた第1期生として入校した。商社勤務時代に中国語を習得しており、フィリピン・ルバング島への派遣が決まった。そして1974年3月、29年間の潜伏生活の末に日本へ帰還した。

同期生であった井登慧(いと さとし)氏は、小野田についてこう語っている。

「小野田の行為は『とにかく生き延びて、最後の1人になるまで戦い続けろ』という中野学校の教育そのものなんです。演習でも何でも、とにかくまじめに取り組む男でしたから、『あの小野田なら』と思いましたね」

小野田自身も、後年のインタビューでこう証言している。

ルバング島の任務で話していないことがたくさんある

その先は、同伴者に遮られ、聞くことができなかったという。「中野は語らず」——その不文律は、戦後80年を経てなお守られ続けている。

「虚仮の半生」——語られなかった秘密戦士たちの戦後

陸軍中野学校の卒業生は約2,300名。そのうち戦死者289名、行方不明者318名とされるが、偽名や変名で任務に就いたまま終戦を迎え、生死の確認ができない者も多い。

久米島で「離島残置工作員」として活動した竹川実氏(T少尉)は、師範学校出身の経歴を活かし、「上原敏雄」という偽名で国民学校教師として潜入した。敗戦後も偽名のまま教員を続け、本土帰還後は神戸で教職に就き、最後は小学校校長となった。

師範学校卒業30年の記念冊子に、竹川氏はこう記している。

「沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体何をしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような30年とさえ思われます」 「この30年は虚仮の半生だったと悔やまれます

戦後結婚した妻や子供にも、「中野」の話は一切していなかったという。

井登慧氏もまた、戦後をこう振り返った。

「秘密戦士も、任地や命令によって生死が分かれたわけで、結局は正規軍の兵士と同じ。一つの駒でしかなかったんです」

訓練の厳しさを示すエピソード

中野学校での訓練は、常に「実戦」を想定していた。

井登慧氏は入学時の面接についてこう証言している。

「ある日の行軍中、川を渡り終えたところで教官が突然足を止め、質問を浴びせてきた。『橋の長さは?』『川の水深は?』『どのくらいの爆薬があれば橋を壊せるか?』」

諜報員として、周囲の情報を瞬時に把握し記憶する能力が求められた。ノートを取らない教育は、この能力を養成するためでもあった。

変装訓練では、1週間ほど農家に下宿し、鍬を担いで農作業を手伝った。敵地への潜入を想定した訓練である。また、甲賀流忍術14世名人を招いて忍者の極意を学び、服役中のスリの名人を刑務所から呼んで出張講義も行われた。

カリキュラムには以下のような科目が含まれていた。

  • 変装術、開錠術(金庫破り)、スリの技術
  • 暗号解読、秘密通信法
  • 毒薬、細菌学、法医学
  • 合気道(必修)、忍術
  • 航空機操縦、自動車運転
  • 各国の軍事政略・兵要地誌

そして語学——英語、ロシア語、中国語。「敵を知る」ことの全ては、言葉から始まった。

英語教育が持った真の意味

陸軍中野学校における英語教育は、単なる「実用的スキル」の習得を超えた意味を持っていた。

当時の日本社会では、英語を学ぶこと自体が「非国民」と見なされかねない行為だった。しかし中野学校の教育者たちは、感情的な国粋主義ではなく、冷徹な合理主義に立っていた。

「八紘一宇、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず」 「天皇に対する見方も自由であり、学生や教官の間で天皇の是非が討論される事もしばしばだった

教官の中には、こう助言する者もいた。

芸者遊びをしたことがない者は役に立たないぞ」 「軍隊要務の典範令ではなく、マルクスの資本論を読め

これは異端の教えではない。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の教えの、最も忠実な実践だった。英語を学ぶことは、敵国の思考様式、文化、価値観を理解することであり、それこそが情報戦における最大の武器だった。

卒業生たちは、その語学力を活かしてアジア各地で活動した。F機関(藤原機関)はマレー作戦でインド人兵士への投降工作を成功させ、インド国民軍の編成に貢献した。南機関はビルマ独立義勇軍との共同作戦を指揮した。彼らは「英語さえ話せず、諜報活動に関する一切の訓練も受けていない」まま赴任した者も多かったが、「誠の心」でアジアの信頼を勝ち取った。

結論——闇に消えた灯火

陸軍中野学校は、わずか7年間で閉校した。1945年8月15日、敗戦——その日、学校の資料はほぼ全て焼却された。「中野は語らず」の不文律の下、卒業生たちは生涯にわたり沈黙を守った。

しかし彼らの精神は、完全には消えなかった。戦後、一部の卒業生はインドネシア独立戦争やインドシナ戦争に身を投じ、アジアの植民地解放を支援した。また陸上自衛隊には「調査学校」が設立され、中野学校の精神を継承したとされる。

敵性語排斥の時代に英語を学び続けた若者たち——彼らは「敵を知る」ことの本質を理解していた。感情に流されず、合理的に思考し、しかし根底には「誠の心」を持つ。その逆説的な教えは、80年を経た今もなお、私たちに問いを投げかけている。

「敵を知らずして、どうして勝てるのか」——陸軍中野学校の英語教育は、その最も純粋な実践だった。


主要参考文献

  • 山本武利『陸軍中野学校』(筑摩選書、2017年)
  • 斎藤充功『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』(バジリコ、2013年)
  • 畠山清行、保阪正康編『秘録 陸軍中野学校』(新潮文庫)
  • 中野校友会編『陸軍中野学校』(原書房、1978年)
  • 日下部一郎『陸軍中野学校 実録』
  • Stephen C. Mercado『The Shadow Warriors of Nakano』(Potomac Books, 2002)
  • Yahoo!ニュース特集「陸軍中野学校 秘密戦士の遺言」(神戸新聞社、2019年)