日本近代文学の巨匠・夏目漱石は、16歳まで英語が「大嫌い」だった。 その少年が一念発起し、わずか数年で帝国大学英文科に首席入学、日本人初の英文学講師となり、やがて『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を世に送り出す。漱石の英語学習の軌跡は、「才能」ではなく「志」と「根気」が人生を変えることを証明している。現代の英語学習者にとって、漱石の学びの姿勢と具体的な方法論は、150年の時を超えて生きた指針となる。
「英語ときたら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした」
漱石は1867年、江戸牛込で名主の五男として生まれた。生後すぐに里子に出され、1歳で養子となり、9歳で養父母が離婚——21歳まで実家への復籍が認められないという波乱の幼少期を送る。この複雑な家庭環境が、「自分の力で道を切り開く」という強い意志を育てた。
幼い漱石が心を寄せたのは漢学だった。12歳で二松學舎(漢学私塾)に入り、漢文の世界に没頭する。しかし長兄・大助は「末弟を大学に出させて夏目家再興の願いを果たそう」と考えていた。明治の日本において大学進学は立身出世の最短ルートであり、その門をくぐるには英語が不可欠だった。
談話『落第』で漱石は当時をこう振り返る。「英語ときたら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした」——しかし大学予備門の入学試験に英語は必須。漢学への未練を断ち切り、16歳の漱石は神田駿河台の成立学舎に入学する。
英語漬けの環境に身を投じた決断
成立学舎は当時としては過酷な学習環境だった。数学、歴史、地理——すべての授業が英語の原書を使い、英語で行われた。現代でいうイマージョン教育に近い。窓に戸がなく冬は寒風が吹き込む粗末な校舎で、素養のない者には「非常に骨が折れた」と漱石は回想している。
しかし、この環境が漱石を変えた。『落第』にはこう記されている。
「ナショナルの二位しか読めないのが急に上の級に入って、初めはどうかなると思ったが、好きな漢文は読むことが出来なくとも仕方がない、なんでも分るようになって勉強をすると、終には分る様になって、其年(明治17年)の夏は運よく大学予備門へ入ることが出来た」
英語ができない環境に身を置いたことで、漱石は一発奮起した。翌年、大学予備門に合格。同級生には正岡子規、南方熊楠、山田美妙ら、後に日本文化を担う俊英たちが名を連ねていた。
落第が生んだ「首席への道」
大学予備門入学後、漱石は一度落第を経験する。腹膜炎を患い、追試験も受けられなかった。しかしこの挫折が、彼の学問への姿勢を決定的に変えた。
「学課の方はちっとも出来ないし、教務係の人が追試験を受けさせて呉れないのも、忙しい為もあろうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事も出来ないから、どうしても勉強する必要がある」
この反省から漱石は猛勉強を開始し、卒業まで首席を通すという驚異的な成果を収める。特に英語は頭抜けて優れており、帝国大学英文科では主席で卒業、特待生にも選出された。英語教授J.M.ディクソンから認められ、大学在学中に『方丈記』の英訳を依頼されるほどだった。これは日本古典の最初期の外国語訳として歴史的意義を持つ。
漱石が実践した5つの英語学習法
漱石の学習法の核心は『現代読書法』(1906年)と『一貫したる不勉強』に凝縮されている。
第一に、辞書に頼らない多読。 「英語を修むる青年は、ある程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山読むがよい。少し解らない節があって其処は飛ばして読んでいってもドシドシと読書していくと終いには解るようになる」と漱石は説いた。わからない単語で立ち止まらず、文脈から意味を掴む。この姿勢が膨大な読書量を可能にした。
第二に、繰り返しの重視。 「要するに英語を学ぶものは日本人がちょうど国語を学ぶような状態に自然的慣習によってやるがよい。即ち幾遍となく繰返し繰返しするがよい」——母語習得のように、自然に身につくまで反復する。
第三に、機械的暗記の否定。 「彼の難句集なども読んで器械的に暗唱するのは拙い。難句集というものは一方に偏して云わば軽業の稽古である」と断じた。文脈から切り離された暗記は本質的な力にならない。
第四に、音読と黙読の使い分け。 「英語の発音をなだらかにする場合には稽古として音読することもあろう。又謡うべき性質の詩などは声を出すのもよかろうが、思考を凝らして読むべき書籍をベラベラと読んでは読者自身に解らない」——目的に応じた読み方の選択が重要だった。
第五に、「知りたい」という情熱。 『一貫したる不勉強』で漱石はこう述べる。「英語はこういふ風にやつたらよからうといふ自覚もなし、唯早く、一日も早くどんな書物を見ても、それに何が書いてあるかといふことを知りたくて堪らなかつた」——方法論以前に、読めるようになりたいという人並外れた知的好奇心が漱石の原動力だった。
ロンドン留学——「もっとも不愉快の2年」が生んだ転機
1900年、33歳の漱石は文部省から英国留学を命じられる。年額1,800円の留学費を手に、約50日の船旅を経てロンドンに到着した。しかし待っていたのは栄光ではなく、人生最大の苦悩だった。
『文学論』序で漱石は振り返る。「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」
経済的には困窮した。物価高のため安い下宿を転々とし、2年間で5回引っ越した。留学費のほとんどを本代に注ぎ込み、食事もままならない日々が続いた。言語面でも壁があった。日本で英語教師を務めていた漱石だが、イギリス労働者階級のコックニー英語には苦労した。
しかし最大の苦悩は知的なものだった。ロンドン大学の講義を聴講したが、「払い聴く価値なし」と数ヶ月で中止。幼少期から親しんだ漢文学と英文学の本質的な相違に懊悩し、「三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだった」という大学時代からの疑問が噴出した。
漱石は下宿に籠もり、「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問いに真正面から取り組む決意をする。
「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり」
膨大なノートを作成し、「蠅頭の細字にて五六寸の高さ」に達するまで書き続けた。日本では「夏目狂せり」という噂が文部省に届くほど、漱石は精神的に追い詰められていた。
「自己本位」という人生の軸を掘り当てた瞬間
苦闘の末、漱石は一つの境地に達する。『私の個人主義』(1914年、学習院での講演)でその瞬間を語っている。
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです」
「あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのです」
そして漱石は「自己本位」という言葉を見出す。西洋人の解釈を鵜呑みにするのではなく、日本人である自分自身の目で文学を見つめ直す。他人本位から自己本位への転換——これが漱石を救った。
「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました」
「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう」
帰国後、漱石は日本人初の帝国大学英文科講師となる。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として赴任した当初は、前任者を慕う学生から受講ボイコットを受けた。しかし漱石は動じなかった。西洋人の受け売りではなく、自説を堂々と展開する講義は次第に学生の心を掴み、シェイクスピア『マクベス』の講義が始まると人気が急上昇した。
「牛になる事はどうしても必要です」
漱石が亡くなる4ヶ月前、若き門下生・芥川龍之介と久米正雄に宛てた手紙がある。そこには学びの本質を突く言葉が記されていた。
「牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです」
「あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです」
「牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」
焦らず、根気よく、超然として歩み続ける。華やかな才能の「火花」ではなく、地道な努力の「牛」こそが道を拓く——これは漱石が生涯をかけて証明した真理だった。
現代の学習者への遺産
漱石の英語学習の軌跡は、今日の学習者に明確なメッセージを伝えている。
苦手からでも逆転できる。 「大嫌い」だった英語を武器に変えた漱石の例は、スタート地点の不利を言い訳にしない勇気を与える。環境に身を投じる決断が転機を生む。成立学舎という英語漬けの環境に飛び込んだことで、漱石は強制的に成長の機会を得た。
挫折は終わりではなく始まり。 落第を経験し、ロンドンで「狂気」と呼ばれるほど追い詰められながらも、漱石はそこから這い上がった。むしろ『文学論』序でこう述べている。「神経衰弱にして狂人なるが為め、『猫』を草し『漾虚集』を出し、又『鶉籠』を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず」
そして何より、「知りたい」という純粋な情熱。方法論は後からついてくる。一日も早く「何が書いてあるかを知りたくて堪らなかった」という渇望——それこそが漱石を文豪へと押し上げた原動力だった。
150年前、英語嫌いの少年は「牛」のように歩み続け、日本文学の頂点に立った。その足跡は、今を生きる私たちへの励ましであり続けている。
結論——漱石が教えてくれること
夏目漱石の英語学習は、単なる語学習得の物語ではない。それは「他人本位」から「自己本位」への精神的成長の記録であり、困難を糧に変える人間の可能性の証明である。
漱石が到達した英語力は、『方丈記』英訳という歴史的業績、帝国大学での講義、『文学論』という独創的な学術書として結実した。しかしその成果以上に価値があるのは、学びへの姿勢そのものだ。辞書に頼らず読み進める胆力、繰り返しを厭わない根気、機械的暗記を退ける批判精神、そして何より「知りたい」という燃えるような好奇心。
「世の中は根気の前に頭を下げる」——この言葉を胸に、今日も一歩を踏み出す価値がある。漱石がそうであったように、私たちもまた「牛」として、超然と、しかし確実に前へ進むことができるのだから。


