新渡戸稲造の英語学習——9歳から始めた「太平洋の橋」への道

偉人の英語学習法

「願わくは我、太平洋の橋とならん」。この一言で東京大学の面接官を驚かせた21歳の青年は、その言葉を生涯かけて実現した。新渡戸稲造は9歳で英語学習を始め、37歳で『武士道』を英語で執筆し世界的ベストセラーに、58歳で国際連盟事務次長として「ジュネーブの星」と称された。彼の学習法には「毎日3語」という地道な習慣と、仲間と日本語を話したら罰金を課すという徹底した実践があった。現代の英語学習者に希望を与えるその軌跡をたどる。

武士の子が英語を学び始めた理由

1862年、新渡戸稲造は盛岡藩士の家に生まれた。「稲之助」という幼名は、父と祖父が開拓した三本木原(現・青森県十和田市)で初めて稲が実った喜びを込めて名づけられたものだ。由緒ある武士の家系でありながら、祖父・傳は西洋から輸入した文物を数多く所有しており、幼い稲造は西洋への憧れを自然と育んでいった。

しかし運命は早くから試練を与える。5歳で父を亡くし、9歳で母と離れ上京。以後9年間、一度も母に会えないまま、「ハハキトク」の電報と入れ違いで母の死を知ることになる。その母・せきからの手紙には、こう記されていた。

「一生懸命勉強し、日本はおろか世界に、名を挙げるよう励め

母のこの言葉が、新渡戸の胸に「太平洋の橋になりたい」という志を芽生えさせた原点だった。

明治維新により武士の時代が終わり、「刀を捨てたサムライ」世代として新しい日本を担う使命感もあった。9歳で上京した稲造は、叔父・太田時敏の養子となり、家の掛かりつけ医から初めて英語を学ぶ。11歳で東京外国語学校に入学し、以後4年間、数学・地理・歴史のすべてを英語で学んだ。13歳で東京英語学校に進み、ここで生涯の親友となる内村鑑三宮部金吾と出会う。

「毎日3語」と「日本語禁止」——具体的な学習法

新渡戸稲造の英語学習法の核心は、徹底した継続と実践にあった。

一日三語の語彙学習

彼は毎日必ず3つの英単語を覚えるという習慣を貫いた。雨の日でも、気分が乗らない日でも、この方針は変えなかった。重要なのは、「今日は6語覚えたから明日は休もう」ということも禁止した点だ。一度にたくさん学ぼうとすると挫折する——だから少量を毎日続けることを最優先した。日常会話の9割は約2,000語でカバーできるという考えのもと、約2年で基礎語彙を完成させる計算だ。

仲間との「英語縛り」生活

東京外国語学校時代、新渡戸・内村鑑三・宮部金吾の3人は「日常会話をすべて英語で行う」と決め、日本語を口にしたら五厘(約50円相当)の罰金を課すというルールを設けた。札幌農学校でもこの取り組みは続けられ、17名の同期生の中で新渡戸と内村は常に成績トップを争った。

名文の繰り返し暗唱——30回以上読み返した愛読書

札幌農学校の英文学教育では、名文を繰り返し暗唱することが重視された。新渡戸はトーマス・カーライルの『衣服哲学(Sartor Resartus)』を愛読し、18歳から56歳までに30回以上、原書で読み返した。横浜で外国人からこの本を譲り受けて以来、生涯手放さなかった。後に第一高等学校校長となった際には、学生にもこの本を薦めている。一冊の本を何度も読み込むことで、英語の「文体」と「思考法」を身体に染み込ませたのだ。

札幌農学校——英語漬けの4年間

15歳で入学した札幌農学校では、授業のほぼすべてが英語で行われた。英文学教師ジェイムス・サマーズの授業では、読む(Reading)、書く(Composition)、修辞法(Rhetoric)、暗唱(Elocution)、弁論(Original Declamation)、討議(Debate)と、インプットからアウトプットまで徹底的に鍛えられた。サマーズは学生に音読させながら発音の間違いを積極的に矯正し、口述筆記で作文力を高め、名文の暗唱で英語の本質を掴ませた。

眼病、鬱病、学費滞納——挫折とその克服

新渡戸の英語学習は順風満帆ではなかった。

札幌農学校時代、視力が急激に悪化して眼鏡をかけるようになり、勉強への焦りから鬱病を発症する。追い打ちをかけるように、18歳で母の死を知り、鬱症状はさらに悪化した。さらに経済的にも苦しく、学校の食堂に「学費滞納」の張り紙が出されるという屈辱を味わった。張り紙を「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と破り捨てたエピソードは、彼の負けん気を物語る。退学寸前まで追い詰められたが、友人たちの必死の嘆願により復学できた。

鬱病からの回復を支えたのは、親友・内村鑑三からの励ましの手紙と、愛読書『衣服哲学』だった。カーライルの文章を繰り返し読むことで精神の安定を取り戻し、彼はこう悟る——「逆境にある人は常に『もう少しだ』と思って進むとよい」。

35歳の時にも、札幌農学校教授として週20時間近い授業と舎監業務に追われ、脳神経症で倒れる。しかしこの療養期間が、後に世界を動かす著書『武士道』執筆の機会となる。逆境を「善用」する——これが新渡戸流の生き方だった。

『武士道』——英語で日本の魂を世界に伝える

執筆のきっかけは外国人からの2つの問い

1897年、35歳の新渡戸はカリフォルニア州モントレーで病気療養中に『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』の執筆を始めた。きっかけは2つの問いだった。

1つ目は、ベルギーの法学者ラヴレーとの会話。「日本には宗教教育がないのですか?」と問われ「はい」と答えると、「宗教なしで、どうやって道徳を教えるのですか!?」と驚かれた。

2つ目は、アメリカ人の妻メアリー(メリー・エルキントン)からの日常的な質問。「なぜ日本ではそういう考え方や習慣が一般的なのか?」と繰り返し問われ、日本人の精神的基盤を言葉で説明する必要性を痛感した。

新渡戸は英語で書いた理由をこう説明している——欧米人に日本人の精神・道徳観を直接伝えるためだ。当時、キリスト教国ではない日本は「野蛮で未開な国」と見なされていた。その偏見を覆したいという愛国心と、「太平洋の橋になりたい」という青年期からの志が原動力だった。

世界的ベストセラーへ——ルーズベルト大統領も感動

1899年にニューヨークで出版された『武士道』は、瞬く間に世界に広まった。

セオドア・ルーズベルト米大統領は深く感動し、30部を購入して知人に配布した。さらに5人の子供全員に1部ずつ与え、「日本人のように高尚で優美な性格と、誠実剛毅な精神を涵養すべし」と申し付けたという。1905年の日露戦争講和斡旋時、ルーズベルトが日本に好意的だった背景には、この本への理解があった。

後にジョン・F・ケネディ大統領やボーイスカウト創設者ロバート・ベーデン=パウエルも愛読。SF作家H・G・ウェルズは「進歩と政治的安定を両立させる問題の解決策」を示唆されたと評した。ある英国の文学者は『武士道』を「英文学史上の宝石」と称賛している。

この本は30カ国語以上に翻訳され、日露戦争(1904-05年)を機に国際的ベストセラーとなった。9歳から英語を学び始めた少年が、37歳で書いた英語の本が、2人のアメリカ大統領の心を動かしたのだ。

「ジュネーブの星」——国際連盟事務次長として

『武士道』で世界的に知られるようになった新渡戸は、1920年、58歳で国際連盟事務次長に就任した。「語学が堪能で、見識を備え、人格も素晴らしく、欧米人と対等に仕事ができる」という条件に、彼以上に適した日本人はいなかった。

新渡戸裁定——平和的紛争解決の成功例

1921年、新渡戸はスウェーデンとフィンランド間のオーランド諸島紛争を平和的に解決する。バルト海に浮かぶ約6,500の島々の帰属問題を、「領土はフィンランドに、公用語はスウェーデン語、非武装・中立地帯として自治権を付与」という妥協案で収めた。この「新渡戸裁定」は、国際紛争の平和的解決の成功例として今も語り継がれている。

ユネスコの前身を創設

1922年には国際知的協力委員会を創設。アインシュタインやキュリー夫人ら世界的な碩学を委員に迎え、教育・文化交流、著作権問題などを審議した。この組織は後のユネスコの前身となる。

連盟職員の人気投票では1位を獲得し、「ジュネーブの星」「連盟の良心」と呼ばれた。ある欧州人はこう評した——「東洋人にも、西洋の紳士が足もとにも及ばぬ紳士の中の紳士がいる」。

新渡戸稲造の学習哲学——現代の英語学習者へ

核心となる名言

新渡戸の思想は、現代の英語学習者にも深い示唆を与える。

  • 「知識は、学ぶ者の心に吸収され、その人格に現れてこそ、初めて真の知識となる」
  • 「武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である」
  • 「目的を高き理想に置くならば、これに達する道は一つではない」
  • 「小さいものに忠実であるものは、大きなものに対しても忠実に果たせるであろう」

これらの言葉は、「毎日3語」という地道な習慣と、「太平洋の橋になる」という壮大な志を両立させた彼自身の生き方そのものだ。

新渡戸から学ぶ5つの教訓

  1. 明確な目的を持つ——「なぜ英語を学ぶのか」という問いへの答えが、長期的なモチベーションを支える。新渡戸にとってそれは「日本と世界の架け橋になる」という使命だった。
  2. 小さな継続を守る——「毎日3語」を雨の日も気分が乗らない日も続けた。一度にたくさんやろうとせず、少量を絶対に休まない。
  3. 実践環境を作る——仲間と「日本語を話したら罰金」というルールを設け、強制的にアウトプットの機会を作った。
  4. 名文を繰り返し読む——同じ本を30回以上読み返すことで、単語や文法を超えた「言語の本質」を身体に染み込ませた。
  5. 逆境を善用する——眼病、鬱病、学費滞納、過労による病気——あらゆる困難を学びの機会に変えた。『武士道』は病気療養中に書かれた。

最後のメッセージ

1933年、日本が国際連盟を脱退した年、71歳の新渡戸は病をおしてカナダでの太平洋会議に出席した。反日感情が高まる中、彼は最後まで「橋」であろうとした。会議での最後のメッセージは、こう結ばれている。

「地球上全ての諸国民の親密な交流により、激情ではなく理性が、私利私欲ではなく正義が各人種・国民の調停者となる日が徐々に訪れると考えるのは、望みすぎだろうか」

会議の2ヶ月後、新渡戸稲造はカナダ・ビクトリアで客死した。「太平洋の橋になりたい」と宣言してから50年。彼は文字通り、太平洋のほとりで生涯を閉じた。

結論——「もう少しだ」と思って進め

新渡戸稲造の英語学習は、才能ではなく「意志」と「方法」の物語だ。9歳で始まり、眼病や鬱病という困難を乗り越え、「毎日3語」という地道な習慣と「日本語禁止」という徹底した実践で、世界に通用する英語力を身につけた。その英語力は『武士道』という名著を生み、国際連盟での活躍につながり、2人のアメリカ大統領の心を動かした。

現代の英語学習者が新渡戸から学ぶべきは、「なぜ学ぶのか」という目的意識と、「毎日続ける」という習慣の力だ。彼の言葉を借りれば——「逆境にある人は常に『もう少しだ』と思って進むとよい。いずれの日か、前途に光明を望むことを疑わない」。

1984年から2007年まで、新渡戸稲造の肖像は五千円札に描かれていた。その裏面には、太平洋を中心にした地球が描かれている。21歳の青年が面接で語った「太平洋の橋になりたい」という夢は、国民全員が手にする紙幣にまで刻まれたのだ。