「同時通訳の神様」國弘正雄の英語学習法

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教科書を500回、いや3000回音読した少年が、やがて「同時通訳の神様」と呼ばれるまでになった。 國弘正雄(1930-2014)の英語学習の物語は、才能でも環境でもなく、「愚直な反復」こそが語学習得の王道であることを証明している。海外経験なしで育ちながら、ネイティブスピーカーが舌を巻くほどの英語力を身につけた彼の方法論と哲学は、現代の英語学習者にとって最も本質的な教訓を与えてくれる。


戦火の中で芽生えた「国際人」への志

1930年、東京都北区に生まれた國弘正雄は、中学時代に一冊の伝記と出会う。新渡戸稲造——国際連盟事務次長を務め、『武士道』を英語で世界に発信した国際人。東京帝大の面接で「太平洋を架ける橋になりたい」と答えたという新渡戸の志に、少年の心は激しく揺さぶられた。

父の転勤で神戸に移り住んだ國弘は、1945年、14歳から15歳にかけて神戸大空襲を経験する。300機以上のB-29が投下した焼夷弾で市街地は焦土と化し、親しい知人の最期を看取った。 この体験は後に護憲派政治家として活動する原点となるが、同時に「言葉で世界をつなぐ」という使命感をより強くした。

終戦を迎えた中学3年生の夏、神戸には米英豪の連合軍が進駐してくる。ここで國弘少年は驚くべき行動に出た。手当たり次第に外国人兵士に英語で話しかけ始めたのだ。 ある日、捕虜収容所の鉄条網越しにイギリス人に「What is your country?」と投げかけると、はっきりと「England」という返答があった。この瞬間、「自分の英語が通じる」という確信が生まれた。教室で学んだ英語が、「切れば血が出る生の英語」として初めて息を吹き込まれた瞬間だった。

「只管朗読」——禅の教えを英語学習に転用した革命的メソッド

國弘正雄の名を英語教育史に刻んだのは、「只管朗読(しかんろうどく)」という独自の学習法である。この言葉は、鎌倉時代の禅僧・道元が説いた「只管打坐(しかんたざ)」——悟ろうという気を起こさず、ただひたすら座禅せよという教え——をもじった造語だ。

「悟ろうなどという気を起こさずに、ただ黙ってお坐りなさいというのが『只管打坐』であるとするならば、憶えようなどというケチなことを考えないで、とにかく黙って朗読しなさいというのが『只管朗読』だといえるでしょう」

中学1年で出会った「愚直な教え」

この方法の原点は、中学1年の時に恩師・本村武雄先生から受けた一つの助言だった。「英語を習う一番よい方法は、中学のリーダーを声を出して、繰り返し繰り返し読むことである」——戦時中でテレビもラジオ講座もない時代、若き國弘はこの言葉を「愚直なまでに実行」した。

一つのレッスンにつき500回から1000回。 本人の回想によれば、中高時代を通じて2000回から3000回もの音読を繰り返したという。当時は物資窮乏の時代。質の悪い藁半紙に鉛筆で英文を書き写し、紙面が真っ黒になると、その上から赤鉛筆で書いて紙を節約した。「只管筆写」と呼ぶべき書き写しの修行も、音読と並行して行われた。

なぜ「暗記しようとしない」のが正解なのか

只管朗読の核心は、暗記を「目的」ではなく「結果」とする点にある。一夜漬けのように「覚えよう」と意識して詰め込んだ知識は、試験が終わった瞬間に忘却の彼方へ消えていく。しかし、何百回もの音読を通じて「結果として」口をついて出てくるようになった英語は、身体に染み込んだ「運動記憶」として一生消えない。

國弘はシカゴ大学心理学教室の研究を引用してこう説明する。口に出さない不正確な記憶を「知的記憶(intellectual memory)」、口と手の筋肉を使った正確な記憶を「運動記憶(motion memory)」と呼ぶ。目の筋肉だけでなく、口、耳、手の筋肉を総動員することで、記憶は正確かつ恒久的なものになる。

「中学の教科書で十分」という逆説的真実

國弘の主張で最も挑発的なのは、「中学2〜3年の教科書で十分」という言葉だろう。彼は鋭く指摘する。

「NHKの英会話番組に出てくる会話表現の**90%**は、中学2年までのリーダーでカバーされている」

「日本には英語を専門にしている先生が約7万人いるが、中学3年までのリーダーに出てくる英語が迅速に、ある程度の正確さで口をついて出てくる人は、せいぜい500人いるかいないか

この数字は衝撃的だ。教材を次々と買い換え、新しいメソッドを追いかける学習者は多いが、基礎を「完全にものにしている」人はほとんどいない。國弘は野球に例えてこう警告する。

「ランニングも、柔軟体操も、素振りも一切不要。プロのバッティングを収めたビデオを見続けておれば、ある日突然ホームランが打てるようになる——なんてお話が本当かどうか、考えてみなさい」

具体的な実践方法

只管朗読を実践するための國弘メソッドは明確だ。

  • 教材:中学2〜3年の教科書レベルの、ある程度長さのある一貫した英文
  • 回数:1レッスンにつき500〜1000回
  • 時間:1日10〜15分の細切れ時間を活用(長時間続ける必要はない)
  • 前提:内容・文法・単語を理解した上で音読する(「分析」した後に「総合」する)
  • モデル音声:ネイティブの発音を真似し、抑揚・ポーズ・リンキングを意識する

「音読するのと同じスピードで意味がイメージできるようになるまで」——これが到達目標だ。

アポロ11号の「同時通訳の神様」、その舞台裏

1969年7月20日、人類初の月面着陸。NHKテレビは歴史的瞬間を生中継し、國弘正雄は西山千とともに同時通訳を担当した。この放送で日本全国に名を知られることとなり、「同時通訳の神様」の異名を得る。

しかし本人は後年、意外な舞台裏を明かしている。

「聞こえるのはガーガーという雑音だけ。宇宙飛行士の言葉はほとんど聞こえなかったが、空想しながら”通訳”した。すると全然違う文脈だった。NHKからはひどく怒られたよ

この率直な告白には、國弘の人柄が滲み出ている。1965年には村松増美とともに通訳エージェント「サイマル・インターナショナル」を設立し、日英同時通訳の草分けとして活躍。格調高い「クニヒロ・イングリッシュ」は、河上道生教授から「文法上の誤りがない」と評されるほど正確で美しいものだった。

「帰国子女は怖くない」——国内独学者の矜持

国内で生まれ育ち、高校まで海外経験がなかった國弘は、こう言い切った。

僕は、帰国子女の英語は全然怖くないね

これは傲慢ではない。地道な努力で築いた英語力への確信であり、同じ条件で学ぶ日本人学習者への励ましでもある。

60代の元東大教授が証明した「音読の奇跡」

只管朗読は若者だけのものではない。國弘が指導した大越諒教授のエピソードは、年齢を問わず効果があることを証明している。

元東大工学部長で学士院賞を受賞した機械工学の大家・大越先生は、60代でイギリスの国際学会の小委員長を務めることになった。英語に不安を抱えた大越先生は國弘に助けを求め、「何でも言うことを聞く」と約束した。

國弘は中学2年のリーダーを渡し、車通勤の往復3時間にテープを聴きながら徹底的に音読させた。数ヶ月後、大越先生は子供のように喜んでこう報告した。

羽田空港の英語アナウンスが、初めて聞き取れた

最終的に大越先生はイギリスの学会で見事に議長の役を務め上げた。60歳を超えても、基礎に立ち返る謙虚さがあれば、英語力は向上する。

「橋げたの一つにはなれたかな」——晩年の述懐

2014年11月25日、國弘正雄は84歳で静かに息を引き取った。同時通訳者、英語教育者、NHK講師、政治評論家、参議院議員、三木武夫首相のブレーン——100冊を超える著書を残し、「同時通訳の神様」「日本のライシャワー」「日本外交のキッシンジャー」と様々な異名で呼ばれた人生だった。

しかし晩年、中学時代に憧れた新渡戸稲造のことを問われると、謙虚にこう答えている。

とても橋にはなれなかったが、橋げたの一つぐらいにはなれたのではないかな

旧版『英語の話し方』に送られた3000通のファンレターに、2年かけて全て手書きで返信した律儀な人柄。駆け出しの学生だった鳥飼玖美子に「玖美子ちゃん」と呼びかけながら仕事をまわした親切さ。「神様」の素顔は、驚くほど地に足のついた努力家だった。

現代の学習者が受け取るべき5つの教訓

1. 楽な道は存在しない

「いくら立派な教材でも、『努力の肩代わり』はしてくれません

「聞くだけで話せる」教材への安易な期待を、國弘は明確に否定する。語学習得は習慣の累積であり、近道はない。

2. 基礎の反復こそが飛躍を生む

「同じことを繰り返すなんて、飽きてしまって、時間の無駄だと考えるのは、ごく普通だと私も思いますが、そこを飽きない人が飛躍するのです

一通り理解しただけでは「飛躍」は訪れない。完全に自分のものにするまで、繰り返すことでしか到達できない境地がある。

3. 身体で覚える——運動記憶の力

英語は頭で理解するだけでは足りない。口に出し、手で書き、耳で聞く。**五感を総動員した「運動記憶」**が、いざという時に口をついて出てくる英語を作る。

4. 細切れ時間を侮らない

1日10〜15分の積み重ねで、50日あれば1000回に達する。まとまった時間がないことは言い訳にならない。

5. 一生が修行である

「われわれにとって英語はしょせんは外国語、子守唄を聞いて育った母語ではない。一生が修行だと思い知らされては、トボトボと重い足取りを進めるばかりである」

完璧な到達点はない。しかしその道を歩み続ける中に、確かな成長がある。

結論:愚直さこそが天才を超える

國弘正雄の人生が教えてくれるのは、「愚直な反復は、才能や環境の不利を覆す」という真実だ。海外留学経験なし、戦後の物資窮乏期に藁半紙と鉛筆だけで学んだ少年が、ネイティブを凌ぐ英語力を身につけた。その秘密は、教科書を3000回読むという、誰にでもできるが誰もやらないことを、愚直にやり遂げたことにある。

英語学習で壁にぶつかっている人へ。新しい教材を探す前に、手元の教科書を500回読んでみてほしい。暗記しようとせず、ただ声に出して読む。その先に、國弘正雄が見た景色がある。

朗読こそが安楽の英語上達への道である」——國弘正雄