看板すら読めなかった男が、日本の近代化を牽引した——福沢諭吉の英語学習物語

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26歳のその日、福沢諭吉は絶望した。数年間、死にものぐるいで学んだオランダ語が、横浜の外国人居留地では完全に無力だったのだ。店の看板すら読めない。話しかけても通じない。しかし彼は翌日、「一切万事は英語」と覚悟を決め、ゼロから英語学習を始めた。辞書もない、教師もいない、仲間もいない——その孤独な挑戦が、やがて日本という国を変えることになる。


「門閥制度は親の敵」——学問への執念が生まれた背景

福沢諭吉は1835年、大阪の中津藩蔵屋敷で下級武士の子として生まれた。儒学者だった父は、諭吉がわずか1歳半のときに亡くなった。残された家族は中津に戻り、貧困の中で生きていくことを強いられる。

幼い諭吉は下駄作りの内職で家計を助けながら成長した。その心に深く刻まれたのは、封建制度への強烈な反発だった。どれほど能力があっても、生まれた身分で人生が決まる——この不条理を、諭吉は後に『福翁自伝』でこう表現している。

門閥制度は親の敵で御座る

14歳でようやく塾に通い始めた諭吉は、19歳で長崎に出て蘭学を学び、20歳で大阪の緒方洪庵が主宰する適塾に入門する。そこでの学びは壮絶だった。「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と振り返るほど、昼夜を問わず蘭書を読み続けた。枕で寝たことがないほどの猛勉強の末、わずか22歳で塾頭に就任する。

適塾には「ヅーフ辞書」と呼ばれる貴重な蘭和辞典がたった1冊あり、その部屋は明かりが消えることがなかった。貧しい塾生たちは天満橋で売れ残りの安い魚を買い、質素な食事で命をつないだ。しかし誰もが、学問だけが身分を超える唯一の道だと信じていた。

横浜での絶望——「今までの勉強が何にもならない」

1859年、24歳になった諭吉は横浜を訪れた。前年に日米修好通商条約が締結され、横浜は外国人居留地として開港したばかりだった。蘭学の第一人者として自信を持っていた諭吉は、そこで人生最大の衝撃を受ける。

「そこへ行て見た所がちょいとも言葉が通じない。こっちの云うことも分からなければ、あっちの云うことももちろん分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字と云うものはない」

外国人にオランダ語で話しかけても、誰も理解しない。看板に書かれた文字は、英語なのかフランス語なのかすら判別できない。数年間の必死の勉強が、一瞬で無意味になった瞬間だった。

諭吉は深く落胆して江戸に戻った。しかしその翌日、彼は驚くべき決断を下す。

「横浜から帰った翌日だ、ひとたびは落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟をきめた

彼は時代の変化を瞬時に読み取った。世界の覇権はオランダからイギリスへ移っている。これからの日本に必要なのは蘭学ではなく、英語だ——その判断は完全に正しかった。

辞書もない、教師もいない——孤軍奮闘の英語独学

問題は、どうやって英語を学ぶかだった。当時の日本には英和辞典が存在しなかった。英語を教えられる教師もいない。諭吉は蘭学仲間に英語学習を呼びかけたが、ほとんどの者が同意しなかった。

大村益次郎(後の日本陸軍創設者)は「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ」と言い放った。長年かけて築いた蘭学の知識を捨て、また一から別の言語を学ぶことに、多くの学者が躊躇したのだ。

しかし諭吉は違った。彼はホルトロップという英蘭対訳辞書を苦労して入手する。価格は5両——現在の価値で数十万円に相当する高額だった。中津藩に懇願して、ようやく購入資金を得た。

学習法は独創的だった。英語の文章をまずオランダ語に翻訳し、そこから日本語に置き換える。蘭学で培った文法知識が、ここで活きた。

オランダ語といい英語といっても等しく外国語にして、その文法もほぼ同じであったので、蘭書を読む力は自然と英書にも適用されて、決して無駄ではなかった」

最大の難関は発音だった。文字は読めても、どう発音すればいいのか分からない。諭吉は意外な解決策を見つけた。

「長崎から来ていた子供があって、その子供が英語を知っているというので、そんな子供を呼んできて発音を習ったり、又あるいは長く海外へ漂流していた者で、開国になって船で時々帰ってくる者があって、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある」

適塾の塾頭を務めた一流の学者が、子供や漂流民から発音を学ぶ。必要な知識は、誰からでも学ぶ——この謙虚さと実践的な姿勢が、諭吉の強さだった。

三度の海外渡航が英語力を飛躍させた

1860年、諭吉は咸臨丸でアメリカに渡る機会を得た。勝海舟、ジョン万次郎らと共に、日本人として初めて太平洋を横断したのだ。サンフランシスコで諭吉はウェブスター英語辞典を購入する。日本人がこの辞書を持ち帰ったのは、これが初めてだった。

帰国後、諭吉は最初の著作『増訂華英通語』を出版する。この本で彼は、英語の「V」の発音を表すために「ウ」に濁点をつけた「」という文字を考案した。現在も使われているこの表記は、福沢諭吉が生み出したものだ。

1862年には幕府の遣欧使節団に翻訳方として参加。イギリス、フランス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルの6カ国を歴訪し、西洋文明を直接目撃した。ロンドンでは第2回万国博覧会の開幕式に賓客として出席している。

この経験をもとに書かれたのが『西洋事情』だ。欧米の政治制度、経済システム、社会の仕組みを分かりやすく解説したこの本は、約15万部という空前のベストセラーとなり、明治維新の思想的基盤を形成した。

「天は人の上に人を造らず」——340万部が変えた日本人の意識

1872年、諭吉は『学問のすゝめ』初編を発表する。冒頭の一文は、日本人なら誰もが知っている。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

この言葉は、封建社会で生まれ育った日本人の価値観を根底から覆した。人間は生まれながらに平等であり、学問によって道を切り開ける——幼少期から身分制度の不条理に苦しんできた諭吉だからこそ書けた言葉だった。

『学問のすゝめ』は全17編、1876年までに完結し、累計約340万部を売り上げた。当時の日本の人口は約3,500万人。実に10人に1人がこの本を手にした計算になる。小学校の教科書としても採用され、近代日本人の精神形成に決定的な影響を与えた。

諭吉が英語を通じて学んだ西洋思想は、数々の新しい日本語となって社会に浸透していった。

  • 「演説」——「スピーチ」の訳語。公の場で意見を述べる文化そのものを日本に導入
  • 「討論」——「ディベート」の訳語
  • 「競争」——幕府役人から「穏やかならぬ文字」と批判されたが、諭吉は譲らなかった
  • 「自由」——「我儘放蕩の趣意に非らず」と注釈を付けて紹介
  • 「経済」——諭吉が普及させた概念

1868年には私塾を「慶應義塾」と名付け、蘭学から英学へと教育の軸を転換。以後、日本の英語教育と高等教育の発展を牽引し続けた。

現代の英語学習者へ——福沢諭吉が教えてくれること

福沢諭吉の英語学習から、私たちは何を学べるだろうか。

第一に、挫折を転機に変える決断力。 諭吉は横浜で絶望した翌日に、新たな道を歩み始めた。「今までの努力が無駄になる」と嘆くのではなく、「これからどうすべきか」だけを考えた。サンクコストに囚われない潔さが、彼を前に進ませた。

第二に、学ぶ手段を選ばない謙虚さ。 適塾の塾頭という立場でありながら、子供や漂流民からも発音を学んだ。知識は誰から得てもいい——この実践的な姿勢は、オンライン英会話や動画教材が溢れる現代でも変わらない真理だ。

第三に、学問を「活用」する意志。 諭吉は英語を学ぶこと自体を目的にしなかった。日本の独立と近代化という大きな目標のための手段として、英語を位置づけた。だからこそ、学んだ知識を翻訳や著作、教育活動に惜しみなく注ぎ込んだ。

学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し

諭吉のこの言葉は、「なぜ英語を学ぶのか」という本質的な問いを私たちに投げかけている。

孤軍奮闘した男が、日本を変えた

1901年、福沢諭吉は66歳で生涯を閉じた。下級武士の子として生まれ、1歳半で父を亡くし、貧困の中で育った少年は、日本近代化の最大の立役者の一人となった。

その功績を称え、彼の肖像は1984年から2024年までの40年間、一万円札に採用され続けた。財務省は選定理由を「最高券面額にふさわしい品格があり、国際的にも知名度の高い明治以降の文化人」と説明している。

しかし諭吉自身は、生涯を通じて政府の出仕要請を固辞し続けた。「独立自尊」——自らの力で立ち、自らを尊ぶ。その信念を最後まで貫いた。

26歳のあの日、横浜で看板すら読めずに絶望した青年がいた。しかし彼は諦めなかった。辞書がなければ辞書を買い求め、教師がいなければ子供からでも学び、仲間がいなければ一人で進んだ。

「今日も生涯の一日なり」——諭吉が残したこの言葉を胸に、今日も一歩、英語学習を進めてみてはどうだろうか。165年前、同じように孤独に机に向かっていた男がいたことを思い出しながら。